コラム
【がんサバイバー体験記:後編】治療後の第二の人生は後遺症と共に。けれどいつだって解決策は自分で切り拓く 伊勢 智一さんの場合
海外赴任中に体調を崩し、がんの治療のため日本に帰国した伊勢 智一さん。家族のために強い気持ちを失わず治療に向かった伊勢さんですが、放射線治療と抗がん剤治療によって体は深刻なダメージを受けました。治療終了から13年が経つ現在、伊勢さんはどのような生活を過ごしているのでしょうか。前編はこちらから
再発はない。けれど治療後の生活は、後遺症のある体で生きていく日々。かつて当たり前だったことに困難を感じながら、自分で解決策を見出していく
「入院期間が100日を超え、その後は自宅で体力回復のための療養生活に。激減してしまった体重は少しずつ戻りつつも、歩いていても高齢者に追い抜かれるほど力を無くしてしまいました。翌年から仕事復帰をしましたが当初はリハビリ出勤のようなものでしたね。今では出張も趣味のゴルフも楽しめるようになりました。平日は朝6時半に起床、9時には出社。おおむね19時半ごろ帰宅をして寝るのは1時過ぎといったサイクルです」。
少しずつ体力を回復していきながら、現在の生活リズムとなっている伊勢さんですが、治療前と後とで体に変化がありました。
「リンパ転移対策で喉に放射線を当てたことで、唾液腺が機能しなくなり唾液が出なくなってしまったのです。それに喉もせまくなり、食事を摂ることが困難でそれは今も続いています。普通の人の半分の量を倍以上の時間をかけて食べるのですが、それでも追い付かず、自宅では夕食の完食に1時間もかかっています。
常に喉が渇くのでどうしたものかと試行錯誤しまして、結果カフェオレという解決策を発見しました。水やお茶は飲んでもすぐに胃に落ちてしまい喉が潤わないのですが、糖分と乳成分があるカフェオレはベスト。某メーカーのカフェオレ500mlを箱買いして毎日1本飲み、これまでに3000本以上消費しています。けれどそのせいで虫歯が進行してしまいました」。放射線治療の後遺症は、照射部位は違えどもおおむね伊勢さんのようにもともとの機能が失われてしまうことが多いのですが、「カフェオレ」という解決策は経験者ならではのお話です。

「それでも幸い味覚は失わなかったのですが、舌が過敏になったことで刺激物が食べられなくなりました。酸っぱいものや辛いものがダメ。水分の少ないもの、固いもの、粉状で喉に張り付くものは食べられません。いつも大量の水分で流し込むのですが、おかげで少量の食事でもお腹が張ってパンパンになるという弊害が…。そういったさまざまのことで食事が苦手になってしまいました。自分はそれでもいいのですが、食べにくそうにしている私を見ている妻に申し訳なくて。妻は食事をいろいろ工夫してくれるのですが、どうしてもスムーズに食べられないことがあります。食事の後はすべての歯の間に食べ物が詰まるので、歯磨き・うがいをしないと気持ち悪い。食後すぐに歯磨きに走るのは妻に申し訳ないなと感じつつも、どうしようもないのですよね」とのこと。味覚は残っても食べることが困難になる…。こうしたことも、経験者でないとわからず、職場や会食の機会などはつらい思いをなさってきたことと推察できます。
がんになったときも「がんが生活のすべて」にはならなかった。治療生活を支えたのは「家族を残して死ねない」という強い思い
13年の間、幸いなことに再発もなく過ごしていらっしゃいますが、がんを経験して改めて気をつけるようになったことについては、「健康第一を心がけていますが、もとより1型糖尿病で毎日血糖値を測りながらインスリンを注射し、診察も毎月受けているので、自然に健康管理はできています。長いこと生活自体がそのようになっていますね」と語ってくださいました。
伊勢さんはがんサバイバーですが、普段それを特別に意識することはありません。
「あまり意識していませんがあえて言うなら、がん対策は第一優先ではありませんでした。がんにかかった時も、5年生存率が当時50%となっていましたがまったく死ぬ気はなかったですし。それより家族を残して死ねない、無事に帰国後の家族の生活を構築しなければいけない、という思いだけで乗り切りました。当時、アメリカと日本を短期間で二往復しましたが、まったく時差ボケを感じなかったほど」。
どんな病気やその治療にも共通することかもしれませんが、がん治療は個人の状況によってさまざまです。どれくらいの期間になるのか、体調はどんなふうに変化するのか。先の読めない生活を乗り切るうえで欠かせないのは、自分の人生観を見つめなおし、それを支える大切なものや譲れないもの、あるいはこれはあきらめても仕方がないかもしれない、などといった自分なりの処方箋というべき「納得点」を見出すことなのかもしれません。
【がんサバイバー体験記:前編】上咽頭がんステージ3、仕事の夢を叶えた矢先の宣告。治療終了から13年が経過。伊勢 智一さんの場合
「がん」という病気について語るとき、「2人に1人がかかる病気です」という言われ方をします。珍しくないよ、誰でも罹患する可能性が高い病気だよ、とセットで語ることで、過度に恐れず正しい情報をもとに適切な治療をしよう、というプラスのメッセージを想起します。一方で、アメリカと比較すると日本はがんにかかる人数が増えており、乳がんで見ると日本は死亡率が上昇しています。これは先進国でも珍しい現象だそうです。
いずれにしろ、いくら治療が進化し治癒する確率が上がったとは言え、命を落とす原因のトップはいまだがんなのです。(※)全年齢の死亡原因総数。出典:厚生労働省「死亡順位」
実は身近にいらっしゃる「がんサバイバー」の方々。念願の海外赴任を叶え充実した日々でがんが発覚した伊勢 智一さんの場合
「2人に1人がかかるがん」は、それでもやはり充分な警戒が必要であること、そして、そうした性質を伴う病気だからこそ、個人それぞれの生き方や死生観、そうしたものが影響するために治療生活は千差万別となるのです。今回インタビューにご協力くださったのは、伊勢
智一さん。2009年8月に上咽頭がんのステージ3と宣告され、過酷な治療を終えたあと現在に至るまで再発もなくエネルギッシュに生活を送っています。とはいえ、治療によって後遺症が生じ、それまで気にする必要のなかった体の変化と共に生きていくことは困難や苦労、そして新たな発見もある、いわば第二の人生ともいえるのかもしれません。
伊勢さんのように、特にご自分からがん体験を積極的にお話こそしていないけれど体験者である「がんサバイバー」は、社会にたくさんいらっしゃいます。私たちはそうした1人のがん体験を知ることで、自分に、そして社会にどう活かしていくことができるのでしょうか。
現在も上場企業で勤務中の伊勢 智一さんは1960 年生まれ、大学院を卒業後、 24 歳から一部上場企業に勤務され、第一線で活躍されているビジネスパーソンです。 24 歳での就職以来、岡山、大阪、東京、倉敷、アメリカ、兵庫と、海外赴任も含め、各地で勤務をしてきました。社会に出たころから海外で活躍することを夢に、仕事のかたわら独学で英会話の勉強を続けてきた努力家。また、30歳で糖尿病を発症し34歳で1型糖尿病と診断され、インスリン治療を行なってきたことから、一般の健康な社会人よりはご自分の体調管理や健康管理に気をつけてこられたと想像できます。
念願かなってアメリカのヒューストンで勤務をしていた2009年。当時高校生、中学生だった二人の息子さんの生活をなんとか安定して前進させることに奔走しつつ、もともと日頃から海外出張は頻繁にあり、学会で英語でプレゼンテーションすることにも慣れていた伊勢さんにとって、夢を叶えた仕事環境は刺激的で充実したものだったようです。
耳に感じた違和感が前兆。特に支障がなかったことで楽観していたものの、大学病院の診断で上咽頭がんの診断がおりる
「本場のハロウィーンやクリスマスなどを楽しみ、家族も新しい環境に慣れていったころです。ある日、左耳に違和感があることに気がつきました。飛行機を降りた時に、上空と地上の気圧差で耳がツーンとなることが誰にもあると思いますが、やがて消えるものです。ところが私の左耳は詰まった感じがいつまでも取れないのです。鼻をつまんで口も閉じて息を吹くと、右耳は息が抜けましたが左は抜けません。またそれ以降、ときどき出る痰に血が混じっていることがありました」。ヒューストン滞在1年、これが最初のサインと今にしてみれば思えるところですが、当時はそれ以外になんら支障もなく、現地の耳鼻科では炎症との診断で抗生剤を処方されただけだったため、本格的な診断は日本に一時帰国したときにでもすればいいだろう、と考えたと言います。
そして、「赴任一年で一時帰国した際に近所の耳鼻科で診てもらうと大学病院へ行くようにと紹介状を渡され、その後大学病院に行き詳しく調べたところ、上咽頭がんと診断されました。喉と耳の穴が合流するあたりに腫瘍ができてそれが左側にあったため、左耳が詰まる症状になっていたのです。この場所は手術で腫瘍を取ることができないため、放射線治療と化学治療(抗がん剤)の併用になると言われました。少なくとも2ケ月の入院が必要との診断で、すぐに上司に報告したのです。私としては念願叶って赴任した米国駐在をたった1年で終えることは避けたかったですし、赴任地のテキサス州ヒューストンは世界的にも医療先進地域であったため、現地での治療を希望しますと上司に伝えました。しかしその後、海外生活の長いその上司から、ヒューストンで治療生活を送ると家族の負担がより一層大きくなる、と告げられたことから現地での治療を断念し帰国して日本で治療することにしました。
これに伴い私の米国駐在の任は解かれ、日本へ帰任となってしまいました。あれほど思い焦がれた海外勤務があっけなく終わってしまい、病気になったことより海外勤務が終わったことの方が、私には大きなショックでした」。でも結果的にはこれは賢明な判断だったと今となっては思います。後述のとおり日本では100日間の入院となりましたが、アメリカでは長期入院は難しく短期間で退院させられるようですので、そうなったら家族の生活は成り立たなかったことでしょう。
伊勢さんの病状は上咽頭がん、ステージ3。2023年現在でこの状態の5年生存率は2~3期で60~80%となっていますが、伊勢さんが罹患した2009年当時、上咽頭がんのステージ3では5年生存率は今よりも低い状態でした。それくらい、がんの治療の進歩は非常なスピードで進化していいます。ご自分で当時、病気についてどのくらいの情報を得ていたのでしょうか?
66kgの体重が49kgにまで減少。放射線と抗がん剤の過酷な副作用に苦しんだ過去。それでも「もっともつらかったのは家族のケアをできなかったこと」
「ネット検索のみでしたが、そのとき必要な情報は充分得られたと思っています。というか、実際にはネット検索をするしか時間がなかった、というのもありました。あとは治療を受けることになる大学病院の診断時の話など、セカンドオピニオンは受けませんでした。治療内容は放射線治療 70Gy
(2Gy×35回)、抗がん剤のシスプラチン投与を3クール行うというものでした。当時、病気や治療に関して不安はあったものの疑問を抱く余地はなく、とにかく一刻も早く病気を治して仕事復帰すること、そして家族の生活を立て直すこと、これしか念頭にありませんでした。お金の面もがん保険に入っていましたがから個室で入院もできましたし、懸念はありませんでした。
始まった放射線治療は痛くもかゆくもありませんでしたが、回数を重ねるにつれ喉全体が口内炎となり、ひどい痛みで水も飲めなくなってしまいました。そのうえ、抗がん剤の副作用で何かひと口食べても吐き気に襲われ、まったく口から栄養を摂れなくなってしまい、抗がん剤治療も本来3クール予定だったのですが、抗がん剤の作用で下がった白血球数がなかなか戻らなかったため、2クールで中止になったのです」。
このとき、入院前に66 kg あった伊勢さんの体重は49kg まで減ってしまい、白血球数も大幅に減少していたことから体力を回復させるまで入院が必要となり、入院生活は3ヶ月を超えたのでした。屈強な働き盛りの男性の体重が49kgにまで落ちるほどダメージを得た治療は、想像に余りある過酷さです。やはり体調が一番つらかったことになるのでしょうか。
「いえ、もちろん治療は本当につらかったのですがそれ以上に、海外赴任から即入院となってしまったことで家族のケアがまったくできなかったことがしんどかったです。とくに長男の高校編入がなかなか決まらなかったことが心配でたまりませんでしたねぇ」。今では二人の息子さんも社会人になり、確実に歳月は過ぎていきます。
治療を終え今年で13年、次回は治療以降の伊勢さんの生活についてお話をお聞きします。
東京都:「お金」を学ぼう!アンバサダー就任式開催。「国際金融都市・東京、都民の金融リテラシーを高めたい」
東京都は、都民の安定的な資産形成に向けて金融リテラシーの向上を推進しています。都民がお金について考え、賢く活かす第一歩を後押しすることを目的として、新たに「『お金』を学ぼう!アンバサダー」を創設、本日8月29日(火)、都庁にて「『お金』を学ぼう!アンバサダー」の就任式が開催されました。
無関心層や特に若者に向けて働きかけていくことを目的とし、アンバサダーに選ばれたのはタレントの山之内 すずさんとフリーアナウンサーの青木 源太さんです。
小池 百合子都知事より、アンバサダーお二人に任命証が交付されました。
山之内さんはSNSの総フォロワー数が110万人とのことで、若い世代への情報発信力が期待されています。対する青木アナウンサーは、投資歴15年とのことで山之内さんいわく「投資についてわからないことは全部青木さんに聞くと教えてくれる!」とのことでした。
任命証を受け、「2人でこれから力を合わせて若い方を中心に、お金について学ぶ情報発信をしていく」と笑顔で宣言していました。
山之内さんは「私はこれから資産運用をしようとしている。芸能界に入って5年目、貯金はできるが資産運用はやってみたいけれど、正しい情報を選択して何から始めたらいいのか、と思っていた。今回、アンバサダーとして私自身も勉強していきたい。また、投資の大先輩である青木さんからも学びながら発信していこうと思う」と、意気込みを語りました。
自動車販売店に保険代理店業務を禁止してはいけない理由
ビッグモーター関連の報道が止まりません。
次から次へと信じられないような報道がなされており、事実であったとすれば厳しく責任を問われることは間違いないでしょう。また、単なる個社の問題のみならず、構造的な問題についての意見も増えてきています。そのなかで、多少気になる意見があったので解説しておきたいと思います。
それは、「自動車販売店に保険代理店をさせてはいけない」という意見です。たとえば、弁護士で元大阪府知事の橋下徹氏は「大きな車の販売会社はもう保険代理店としては認めないという法律を作るしかない。」と発言されています。(出典:https://toyokeizai.net/articles/-/691136?page=3)
これは利益相反(本来契約者の利益のために働くべき保険代理店が、自身の利益のために逆に契約者に損害を与えてしまうこと)を防ぐ観点からは一理あるのですが、実際にこのような法規制をしてしまえば、さらに大きな弊害が生じると思われます。
自動車販売店が保険代理店をできなくなったとき、何が問題となるのか
それは、自動車販売店が自動車保険を売れなくなれば、無保険の自動車が公道に出てしまう可能性が高くなるのではないかということです。通常、自動車を購入する場合、その購入店で自動車賠償責任保険(強制保険)に加入するとともに、任意の自動車保険への加入を勧められることになります。もし自動車販売店が保険を販売できなくなれば、他の代理店で加入しなければならないことになります。
自賠責は法令で加入が義務付けられていますので、常識的な自動車販売店であれば、自賠責への加入が確認されない限り納車しないというオペレーションになると思いますので、さすがに自賠責に加入していない自動車が公道に溢れることはないとは思いますが、問題は任意保険です。
自動車を購入しようと思ったことがある方は、任意保険の重要性を繰り返し聞いているはずです。自賠責では仮に他者に損害を与えた場合に損害の全額を補償することは難しく、損害の程度によっては被害者が泣き寝入りをしなければならないことは十分考えられます。そのため、任意保険に対人・対物無制限で加入することにより被害者に十分な補償ができるようにしておくことは、ドライバー個人を守るためではなく、被害者を守るための社会的な責任であるといえます。
自動車販売店が保険代理店をできなくなれば、ほぼ確実に任意保険に加入していない自動車が増えることになるでしょう。また、それこそビッグモーター社のように倫理感に欠ける自動車販売店であれば、自賠責すら加入していない自動車を納車してしまうかもしれません。
現在の任意保険の加入率は88%程度ですが、これをさらに引き上げることは引き続き重要な社会課題であり、下げることはあってはなりません。大手自動車販売会社が保険販売ができなくなれば、任意保険加入率が大きく下がってしまうことも十分に考えられます。
逆に考えれば、ビッグモーター社は損保ジャパン社と東京海上日動社が代理店委託を解消するとの報道が出ており、仮に残りの5社もこの動きに追随するとなれば、ビッグモーター社は保険の売れない中古車販売業者ということになります。ビッグモーター社は今のところ中古車販売業そのものは継続していますが、同社から任意保険未加入の自動車が大量供給されることのないように、なんらかの手立てを打つ必要があるでしょう。
今後一層バランスの取れた議論が望まれる
このように、保険商品のうちの一部には普及率を上げることに社会的なメリットがあります。
たとえば、現在日本に子育て世帯は約1,000万世帯ありますが、子育て中の親世代の毎年の死亡率がおおむね1,000分の1程度なので、大雑把に計算して毎年500世帯に1世帯は両親のどちらかが亡くなることになります。もし仮に生命保険がなければ、毎年数万人の子供が生活費を稼がなければならなくなり、本当にやりたかったことを諦めたり、チャレンジを断念したりしなければならなくなるでしょう。それは大きな社会的損失であり、生命保険を普及させることのメリットはそこにあります。
生命保険でも損害保険でも保険の募集に関しては何十年にもわたってトラブルを起こしてきているわけで、トラブルを無くすだけなら単に規制を厳しくすればいいのですが、普及させることも社会的な重要性があるのでそのバランスを取ることが難しいのです。
ビッグモーター社や代理店を委託していた損害保険会社の問題に絡んでこれからもさまざまな意見が出され、具体的な制度改正にもつながっていくかもしれませんが、こうした保険の社会的な効用にも目を配ったバランスの取れた議論が望まれるところです。
【前編】仕事のこと家族のこと、「いつか来る未来」に淡く希望を託すのをやめた。今やらなければ死にきれないという覚悟で1日を生きる。起業家 中村 優志さん
「将来の夢」。この言葉に前提として「この先もずっと生きている未来」が含まれていることに気がつくのは、「明日が来るのが当たり前ではないかもしれない」という事実に直面したときかもしれません。それがまだ20代の青年であればなんら不思議のないこととして未来に想いを寄せるもの。現在、若き起業家として “日本酒” に焦点を充てて活動する中村 優志さんは、28歳でまさにそうした体験をしました。起業家として事業に対して中長期のビジョンを持ちつつも、ひとりの人間としての視点では “今日を生き切る” ことに価値観をシフトした原点についてお話をお聞きしました。
28歳でがん宣告。青年社長は高校生へも自身のがん体験を伝えていく。未来ある若者に「今をどう生きるべきか」問いかける
取材現場にさっそうと現れた株式会社リシュブルーの代表である中村 優志さんは、年相応のいかにも健康そうな青年そのものです。言われなければわずか2年前にがんの治療を受けていたとは信じられないほど。しかし中村さんは、ご自身のがん体験を積極的に発信することも会社経営と同等に大切にしているそうです。
「がん体験によって本当にたくさんのことが変化しました。以前は自分の考えを自ら発信することがそこまで得意ではなかったのですが、今はがん体験を含め積極的に発信するようになりました。僕の話がすべての人に刺さることはなくても、刺さる人もいるだろう、たった一人であっても僕の話で元気になってくれたらいいな、とそういう思いで発信しています。特にがん体験については都立高校ががん教育を始めたことから、高校生へ向けて講演活動も行っているんですよ」。そして、もっとも変化したことについては「考え方です」と、きっぱり。
「人間いつ死ぬかわからない。28歳でがんに罹患してから考え方がそのように変わりました。以降は、今日までの行動に対して明日死んだとしたら?後悔はなかった?と自問するようになりました。たとえば5年、10年後に向けてやりたいことがあったとして “今日も精いっぱいそこに向かっている” という自覚を持って生きるのと、“やりたいことはあるけどそれってなんとなく10年後くらいでしょ”という感覚で生きているのとでは、仮に明日死んだら?と問いかけたときに本気度も納得も違う。やりたいことがあるのなら、今すぐに取り組んでやろうとなったのが、一番変化したことです」と語ります。
起業はいつかできればいいと思っていた。順調なキャリアアップから「即行動へ」とシフトした契機とは
大学卒業以降に歩んできた金融業界での順調なキャリアを大きくシフトした中村さんですが、それまでは三井住友銀行の法人セクションで培った実績をもとにして、管理職のポストを用意されアクサ生命保険に転職を果たしています。ところが入社後半年にも満たないうちがんが発覚したのです。
「当時いろいろキャリアを描いていた矢先。新天地での仕事はさまざま構想していたタイミングでしたし、会社側も新しい支店を立ち上げるプロジェクトのリーダーとして登用してくれることになっていました。半年でそれらが崩れて一気にがくっとはなりましたよ、さすがに。けれど、がんの体験はさまざまな意味で転機になって人生を見つめ直すことになりました。アクサ在籍中に、頭のなかにあった起業を実現できたらな、と思うようになり、事業構想1年半ほどで2022年に会社を立ち上げて今に至ります。
学生時代からいつか起業を、と考えていました。でも銀行というのは大変巨大な組織ですから管理職へ進んでステップを踏んでいくことを考えても、少なくとも10年以上かかる。ちょっとそれは待ちきれないぞ、と思っていたときに管理職で新規事業への参加という条件で迎えてくれた企業へ転職したのも、起業の夢へ近づくためでもあったのです」。
しっかりとご自身の計画のもと夢へ踏み出していたさなかの突然のがん体験は、「やりたいなら今やるべきだ」と一刻もむだにできないという衝動となり、即座に実行に移すこととなったのです。
生殖に関わるがんゆえに、漠然としていた家族との計画にもたらされた転換点。宣告時に重要な意思決定が迫られる現実
中村さんの罹患したがんは精巣がんでステージ1のC。10万人に1人と言われる稀ながんで、比較的若年層に多く発症するがんとされています。宣告時、既にご結婚もしていました。他の臓器と異なり生殖に関わる部位に発症したがんは、若いお二人に大きな動揺となったことは想像に難くありません。
「当時まだ新婚でしたし、具体的に子どもをどうしようなどの話すらしていませんでした。ですが今度は目の前の現実問題として直面し、抗がん剤治療をすると子どもができにくくなるとも聞いて。でもこれからかかるお金のこともあるし、病気になった体のこともあるしで、正直当時子どものことまで考える余裕がなかったというのが本音。それでも、見通しがつかないこの先に、どういう転換点が起きるかわからなかったものですから、精子は大学病院で冷凍保存をしています。今後の家族としての計画、あるいはこれからの妻と生きていく人生を考えるきっかけになったと思います」と、語る中村さんですが、実際、がん宣告をされるといっぺんに考え意思決定をしないとならない問題に直面します。
それは治療法の選択や仕事への影響と手続き、治療期間中のお金のことなど、どれも重い内容ばかりです。本来であれば余裕をもって考えていきたいことすらも猶予がありませんでした。そのとき、ご家族や職場はどういった受け止め方だったのでしょうか。
「妻に対しては新婚間もない時期に突如、身体のことに始まりお金のことだとか、いろんな心配をかけてしまっていることが申し訳なくつらかったです。ですが、妻からしてみると僕が自分のことだけでなく、妻にかけている負担を案じている状態がかえってつらかったみたいで…。それぞれの立場から互いを思い合っていたこのだと思います。
職場は幸いにも保険会社でしたので、がんに対する理解も深く柔軟に対応してくれました。スムーズに休めるようにしてくれたので、なんの支障もありませんでしたから、仕事においては懸念のない状態で治療生活に進むことができたのです」。
中村さんの人生観を大きく変えたがん体験とは、どういったものだったのでしょうか。そして、その体験を乗り越えて今、どんな視座に立ち日々を生きているのか。後編につづきます。
中村 優志
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1992年東京都生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業後2016年4月都市銀行法人セクション部に入社。5年間本店と長野支店を経たのち2021年3月フランス系保険会社に最年少管理職候補として転職。在職中の2021年7月精巣腫瘍が発覚。2022年6月株式会社リシュブルーを創業、代表取締役として“日本酒”に焦点を充てた事業を展開している。