コラム
【保険買取利用者インタビュー】がん治療は「薬との闘い」:いまを楽しんで生きるために生命保険の売却を決意
周囲を明るい気持ちにさせる笑顔の持ち主、萩尾孝弘さん(仮名)。その表情の背景には、ご自身の性格はもちろんのこと、「楽しく生きる」ことを選び取ってきた毎日の積み重ねがありました。
がんの再発と転移、続く治療とその副作用に苦しむ日々のなかで、ご家族からも「好きなことをして存分に生きてほしい」と背中を押され、大切な一日一日を自分らしく生きるために「マネックスの保険買取」で生命保険を売却されました。
その決断を「さまざまな気持ちに区切りをつけ、前を向く力となった」と振り返る萩尾さんに詳しくお話をお聞きしました。
「マネックスの保険買取」は、マネックスグループ株式会社(東証プライム上場)の100%子会社であるマネックスライフセトルメント株式会社が運営する、生命保険の生前買取サービスです。
ご相談・査定は無料です。無理な勧誘は一切ございません
2022年に肝臓がん(ステージⅣ)の診断を受けた。手術後もがんの再発と肺への転移が相次ぎ、抗がん剤のアレルギーに苦しみ、現在は治験薬による治療を続けている。加入していた生命保険(個人契約)を「マネックスの保険買取」で売却。保険金額200万円、解約返戻金はゼロであるところ、130万円で買取が実施された。
がん発見時に腫瘍はすでに5センチ大。再発と転移を経て本格的な治療へ
最初のきっかけは、家内が入院していて、その付き添いで病院に行ったときのこと。なんとなく右脇腹に違和感を覚えたんです。ちょっと脇腹が腫れているような、張っているような感じがしました。せっかく病院にいるんだからと思い、先生に「これ、なんですかね」と聞いてみたら、「じゃあ明日検査しましょう」と。そのときはごく軽い気持ちでした。
翌日CTを撮って、家に帰ろうとしていたときに電話が鳴ったんです。「これはすぐ精密検査が必要です」と。ああ、これはただ事じゃないな、と。詳しく調べてもらったところ、肝臓がんのステージⅣと診断を受けました。すでに腫瘍は5センチもあり、当時の病院では手術も難しい。すぐに県内のがんセンターを紹介されました。
ほどなくして手術を受け、肝臓の3分の1くらいを切りました。手術後はしばらく落ち着いていたのですが、1年経った頃に再発が見つかり、さらに肺にも転移していると言われて……正直、参ったなと思いましたね。そこから本格的な治療が始まったんです。
度重なる抗がん剤アレルギーによる治療中断。妻を看取り、先の見えない不安が襲う
最初に使用した抗がん剤は、とにかく強烈でした。毎日吐き気がひどくて、髪の毛も全部抜けてしまった。「これがずっと続くのか」と思うと、本当にしんどかったですね。
それでも、家内も大変なのに、自分が先に倒れるわけにはいかないという一心で、抗がん剤治療を続けていたのですが、途中でアレルギーが出てしまい、その薬は使えなくなりました。別の薬に切り替えても、また同じようにアレルギーが出てしまう。治療を続けたいのに薬が合わない。身体が拒否してしまう。そんな厳しい状況が続きました。
その間に家内が先に亡くなりました。覚悟はしていたつもりでしたけど……やっぱり堪えました。自分もがんで、治療も思うように進まない。家に帰っても「おかえり」と迎えてくれる家内がいない。気持ちの置き場がないような日々でした。
そんなときに治験薬の話が出てきたんです。「合うかどうかはやってみないとわからない」と言われ、不安もありましたが、ほかに選択肢もない。試してみるかと思って始めました。
治験薬にも副作用はあります。爪が剥がれたり、左腕がしびれたり、味覚がほとんどなくなったり。いつまたアレルギーが出るか分からないけれど、幸いなことに、今のところ中断することなく続けられている。それだけでありがたいと思っています。
がんと闘っているつもりでいましたが、ふり返ってみると実際に闘っていたのは“薬”だったんですよね。どの薬が合うのか、どれなら続けられるのか。身体が薬に耐えているうちは、がんを抑えられる。がん患者は、みんな薬と戦っているんだと思いました。
がんと向き合う日々で「いま生きるために使えるお金」の意味を考える
闘病生活を続けるうちに、これからの生き方を考える時間が増えました。ひとりで過ごす時間が長くなると、どうしても自分の余命のことや、残された時間をどう使うかということに向き合わざるを得ないのです。
がんと向き合うようになって、お金の見え方も変わりました。残された時間をどう過ごすか、そのために何が必要なのか。死んだあとに出る保険金より、いまの自分が生きるために使えるお金のほうが、よほど意味があるんじゃないか。そんなふうに考えるようになっていきました。
そんなとき、以前テレビで見て知っていた生命保険の売却のことを思い出したんです。死んだあとに出るお金があっても、自分にはもう渡す相手がいない。子どもたちにも「いらないよ。自分の好きに生きてほしい」と言われていました。だったら、そのお金を“いまの自分がせいいっぱい生きるため”に使えたらどれだけいいだろう、と。
調べてみると、きちんとした仕組みで、必要な人が自分のためにお金を使えるようにするための選択肢だとわかりました。子どもたちに相談すると、「お父さん、好きなことして生きてよ。保険なんて残さなくていいから」と背中を押してくれた。その言葉を聞いたとき、胸のつかえがすっと取れたような気がしました。
それで売却を決めたんです。
生命保険の売却で「ようやく前を向けるようになった」という思いに
決めてからは、まず問い合わせをして、気になっていたことを確認しました。体調のこともありますし、無理のない範囲でやり取りをしていくうちに、少しずつ具体的な流れが見えてきて、「ああ、本当にこういう資金調達の方法があるのだな」と実感できるようになりました。手続きも思っていたほど負担にはならず、治療を続けながらでも進められたのはありがたかったですね。
いよいよ売却してお金を受け取ったときは、本当にほっとしました。がんになると、いつまで生きられるだろう、治療費はどうしようと、後ろ向きなことを考えがちです。そんな中で「治療費でも生活費でもなく、楽しく過ごすために使っていいお金」ができたことで、気持ちがずいぶん前向きになったのです。
今の状況だからこそ、日々の時間を「ただ消費するだけ」にはしたくありませんでした。好きなものを食べたり、好きなゴルフをしたり、会いたい人に会ったり。自分のためにお金を使えるようになったことで、心の持ちようが本当に変わりました。
楽しむために使えるお金とは「生きている時間の使い方」を自分で選べるということ
実際に売却してみて改めて思うのですが、生命保険買取サービスはもっと広く知られるべきです。
保険を売却して一番良かったことは、単にお金が手に入ったということではなく、気持ちの区切りがついたということ。生きている時間をどう使おうか、一日一日を本気で生きるぞ、これはそのためのお金だと。そうした考え方に変わったことで、残された時間をどう過ごすが自分なりに見えてきたように思うのです。
【保険買取利用者インタビュー】がんと向き合う経営者の選択:生命保険の売却資金で事業継承を盤石に
「残された人たちが自由に資金を使えるように」。会社経営者であるAさんが「マネックスの保険買取」によって、自身の生命保険の売却による資金調達を選んだのは、がんの再発がわかった2024年の4月から数えてわずか3ケ月後の7月のことでした。生命保険の買取という日本でまだなじみの少ない資金調達方法を知った時点で、まだ先行する事例は少なく、Aさんが「マネックスの保険買取」の最初の利用者となります。治療と仕事を両立しつつ、「後進による会社経営にできるだけお金の心配がないようにしてあげたい」という思いから、Aさんが選んだ事業継承のかたちについて詳しくお話を聞きました。
▼お話を伺った方
Aさん(58歳 男性/会社経営者)2021年に肝内胆管がんを罹患し、手術による治療を行うも2024年に再発しステージⅣ(取材時)の診断を受け治療にあたっている。掛け捨て型の生命保険契約(法人契約)を、「マネックスの保険買取」で売却した。保険金額は4000万円、解約返戻金額がゼロであるところ2,650万円で買取を実施した。
最初のがん治療から3年ほどで再発。「手術ができない」と告げられる
がんの再発がわかったとき、主治医から告げられたのは「今回、手術はできない」ということでした。私はもともと2021年に最初のがん治療で手術をしていたので、積極的な治療法として今回もできれば手術を個人的には望んでいたのです。ところが、残念ながら主治医の説明では、いろいろな事情によって難しいということだったのです。それで、自分自身の健康管理をどれだけ長期にわたってやっていけるかということに、今後の治療方針を定めていったわけですが、再発がわかってからひと月ほどは悩みました。同時に、「会社のことをどうしていこうか」という問いがずっとありましたので、それに対して腹がくくれたのは、そこからさらに2ヶ月が経ったころでした。
少しさかのぼって最初にがんがわかったときの話をしますと、2019年には検査で影が映っていたものの、当時の担当医は大丈夫だろうと判断し、そのままにしていたんですね。その後、2020年の12月に総合病院の皮膚科で診療を受けた際に「去年撮った映像を見たのですが、これはちょっと詳しく調べた方がいいですよ」と言われました。そこで検査をしてみると、あのときの影がかなり大きくなっていたのです。
明けて2020年に入ってからも経過観察をしていたのですが、2021年になった頃には5センチを超えるほどになってしまい、そこから手術が決定しました。手術をしたら社会復帰まで半年ほどかかると言われ、「それなら、再発さえしなければ共存していけるのかもしれないな」と当時は期待を持って考えていました。
けれどがんというのは思いどおりにはいきませんね。それから3年強ほどで再発となってしまい、手術もできない病状ということに至ったわけですから。
治療の選択肢が限られるなか、自分の残りの時間を「会社のために」使おうと決意
最初の宣告はもちろんですが今回の再発の宣告と、余命について医師から話があったときは正直なところ、やっぱりきつかったですね。とにかく「治療の選択肢が限られた」ということがきつかった。外科手術で病巣を取ることができないという衝撃に加えて、既に骨に転移がわかったのです。がんはやがて、全身に広がっていきもぐらたたきになるだろう、と想像しました。
「手術で根本の病巣を切除できないので、これ以上他に散らばららないように治療をする」という選択しか残されていないのか、という事実にとても打ちのめされる思いがしました。
しかし同時に、「病気に対して打つ手がないのなら、今のうちにやれることをやらなくては」と考えるようにもなりました。今の会社を一緒にやってきた従業員は、私にとって家族同然。私の最後の時間は、彼らのために全力を注ごう。そう決めたのです。
会社の経営に必要不可欠な「金銭」を次世代に残すために。新たな資金調達法として「保険買取」を知る
そこから会社の今後について、さまざまな選択肢を調べ上げ吟味していきました。特に重視したのがお金、資金調達でした。それというのも、社長である私自身が会社経営から抜けたとき、ではなにで補填できるだろう?と考えると金銭的な価値を遺していくことが不可欠です。そんなとき、たまたまテレビで「マネックスの保険買取」のニュースを見たわけです。
「生命保険の買取」という資金調達方法については、もともと教え子がファイナンシャルプランナーをしていた関係でアメリカでは一般的であることを聞いて知っていたんですね。当時は「そうは言っても日本ではありえないだろう」と考えていました。ところが、テレビでそのニュースを見たときというのが、自分自身がちょうどさまざまな資金調達方法を検討しているタイミングだったもので、すぐに問合せをしてみたのです。
なんせネットで調べても詳しいことがわからない。じゃあ聞いてみよう、ということで問い合わせると、マネックスの保険買取の社長さんと直接話すことができました。そこでいろいろとやり取りをさせていただきながら、もちろん他の方法とも比較検討した結果、最終的に生命保険を売却して資金を得ることを選んだのです。
元気なうちに自分の意志で資金の使用方法を決められる自由に加え、借入をせず事業継承ができる利点
当時他に検討していた方法としては、銀行借り入れや自己資金を増資するなどでしたが、実際コロナ禍で行った借入の返済額を、これ以上増額するのは現実的ではありませんでした。
最終的な決め手となったのは、「自分が今、決めることができる」ということ。死後に保険金が下りた場合、資金の使用方法を私が決めることができませんが、まだ元気なうちに今後どのように資金を使用するのか?という点を自ら決めることができるので、会社に資金を遺し、彼らがこれから経営するうえで自由に使うことができます。そしてなにより、私が元気なうちに相談に乗りながらスムーズに継承していくことができると考えたわけです。
もうひとつ、生命保険は借入金ではないので今からマイナスとなることがないでしょう。なので、財務的にもいろいろな選択肢が持てると思います。私自身は会社に対してどうこうという考えはもうなく、次の世代に継承することで自分の役目はひとつ終わりだと考えています。ちょうど年齢的にも事業継承のことは考えないといけないな、と思ってはいたので、思い切ってこの機に踏み切ることにしたのです。
であれば、新たな借入をしないとならない状態で継承するのではなく、安心して資金が回っていく財務体質づくりにも貢献できる方法ではないか、とも思ったのです。これにより、前倒しで事業継承を進めていくことができるわけですね。
わからないことだらけでも、納得するまで質問に答えてもらって決断へ。すぐに社内体制も刷新し、念願の事業継承に着手
買取に関しては、処理は非常にスムーズでした。一方でなにしろ初めてのことですから、参考とする他の情報もなく、「どのようにしたらいいのか」や、提示された金額が適切なのか?といった疑問については、社長さんと何度もやり取りを重ねました。非常に丁寧に質問にも答えていただきましたし、メールの返信がとても迅速だったので助かりましたね。
私が最初の利用者ということで、不安はなかったのか?と聞かれますが、それは特に感じませんでした。唯一、残念だったのは金額の差でしょうか。私の保険契約は、無解約返戻金型定期保険(法人契約)で、買取にすると4,000万円の保険金額が2,650万円にまでダウンしてしまいました。ただ、私はこの差額でもメリットの方が上回ると判断していたので、デメリットと感じることはありませんでした。つまり、「金額は下がっても自由度が上がった」と解釈し、実行に移したわけです。
そうした経緯を踏まえ、従業員に私の病気の現状について、そして安心して事業継承ができることを伝えることができました。早速着手したのは、社内の責任分担を明確にし、新体制を敷くことでした。金融機関等へはまだ私が代表として業務を行いますが、それ以外の現場業務は既に若手へ譲ることができました。
「新たな資金調達法として経営者に特に知ってほしい」。安心は生きる力になる
自分自身の意思でこうした決定を執ることができたことで、安心を得られたこと、そしてそれが生きる力につながっていると感じています。私は今回、自分の事例をオープンに話すことで、多くの同じようにがんに罹患する方々にこのような新しい資金調達の方法を知ってほしいと考えているのです。自分が生きているうちにお金の使途を選択ができるサービス、制度について知ることで、力になる人は多いはずなんです。
もうひとつ、ひとたび生命保険の契約をしたら生涯で支払う金額は相当のもの。このトータルで支払う金額と、支払われる保険金額とを改めて考えてみると、ある種相当保険会社に有利な仕組みと言わざるを得ないでしょう。それに対して、「保険の買取」サービスの認知が広がっていった場合、保険料自体の考え方も変わってくるかもしれません。また、買取事業が進めば、こうした選択肢も広く知られることで、かえって保険加入者も増える可能性もあるでしょう。
経営者の方で、借入しか選択肢がないことで非常に厳しい状態を続けておられる方がいらっしゃると思うんですね。私は今回、病気自体はアンラッキーでしたが、このような形で資金調達をできたことはラッキーでした。他に同様なケースの経営者の方がおられても、こうしたサービスを知らなければ使うことができません。「帳簿を悪化させることなく資金調達ができる」のは、現状保険の買取くらいではないでしょうか。
2024年に医師から宣告された余命は最短で11ヶ月というものでしたが、それはクリアすることができました。最長でも24ヶ月と言われましたが、私はその2倍を目標にがんばると決めています。だって医者というのは短めに言うものだろうと思いますから。
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【がんサバイバー体験記:後編】治療後の第二の人生は後遺症と共に。けれどいつだって解決策は自分で切り拓く 伊勢 智一さんの場合
海外赴任中に体調を崩し、がんの治療のため日本に帰国した伊勢 智一さん。家族のために強い気持ちを失わず治療に向かった伊勢さんですが、放射線治療と抗がん剤治療によって体は深刻なダメージを受けました。治療終了から13年が経つ現在、伊勢さんはどのような生活を過ごしているのでしょうか。前編はこちらから
再発はない。けれど治療後の生活は、後遺症のある体で生きていく日々。かつて当たり前だったことに困難を感じながら、自分で解決策を見出していく
「入院期間が100日を超え、その後は自宅で体力回復のための療養生活に。激減してしまった体重は少しずつ戻りつつも、歩いていても高齢者に追い抜かれるほど力を無くしてしまいました。翌年から仕事復帰をしましたが当初はリハビリ出勤のようなものでしたね。今では出張も趣味のゴルフも楽しめるようになりました。平日は朝6時半に起床、9時には出社。おおむね19時半ごろ帰宅をして寝るのは1時過ぎといったサイクルです」。
少しずつ体力を回復していきながら、現在の生活リズムとなっている伊勢さんですが、治療前と後とで体に変化がありました。
「リンパ転移対策で喉に放射線を当てたことで、唾液腺が機能しなくなり唾液が出なくなってしまったのです。それに喉もせまくなり、食事を摂ることが困難でそれは今も続いています。普通の人の半分の量を倍以上の時間をかけて食べるのですが、それでも追い付かず、自宅では夕食の完食に1時間もかかっています。
常に喉が渇くのでどうしたものかと試行錯誤しまして、結果カフェオレという解決策を発見しました。水やお茶は飲んでもすぐに胃に落ちてしまい喉が潤わないのですが、糖分と乳成分があるカフェオレはベスト。某メーカーのカフェオレ500mlを箱買いして毎日1本飲み、これまでに3000本以上消費しています。けれどそのせいで虫歯が進行してしまいました」。放射線治療の後遺症は、照射部位は違えどもおおむね伊勢さんのようにもともとの機能が失われてしまうことが多いのですが、「カフェオレ」という解決策は経験者ならではのお話です。
「それでも幸い味覚は失わなかったのですが、舌が過敏になったことで刺激物が食べられなくなりました。酸っぱいものや辛いものがダメ。水分の少ないもの、固いもの、粉状で喉に張り付くものは食べられません。いつも大量の水分で流し込むのですが、おかげで少量の食事でもお腹が張ってパンパンになるという弊害が…。そういったさまざまのことで食事が苦手になってしまいました。自分はそれでもいいのですが、食べにくそうにしている私を見ている妻に申し訳なくて。妻は食事をいろいろ工夫してくれるのですが、どうしてもスムーズに食べられないことがあります。食事の後はすべての歯の間に食べ物が詰まるので、歯磨き・うがいをしないと気持ち悪い。食後すぐに歯磨きに走るのは妻に申し訳ないなと感じつつも、どうしようもないのですよね」とのこと。味覚は残っても食べることが困難になる…。こうしたことも、経験者でないとわからず、職場や会食の機会などはつらい思いをなさってきたことと推察できます。
がんになったときも「がんが生活のすべて」にはならなかった。治療生活を支えたのは「家族を残して死ねない」という強い思い
13年の間、幸いなことに再発もなく過ごしていらっしゃいますが、がんを経験して改めて気をつけるようになったことについては、「健康第一を心がけていますが、もとより1型糖尿病で毎日血糖値を測りながらインスリンを注射し、診察も毎月受けているので、自然に健康管理はできています。長いこと生活自体がそのようになっていますね」と語ってくださいました。
伊勢さんはがんサバイバーですが、普段それを特別に意識することはありません。
「あまり意識していませんがあえて言うなら、がん対策は第一優先ではありませんでした。がんにかかった時も、5年生存率が当時50%となっていましたがまったく死ぬ気はなかったですし。それより家族を残して死ねない、無事に帰国後の家族の生活を構築しなければいけない、という思いだけで乗り切りました。当時、アメリカと日本を短期間で二往復しましたが、まったく時差ボケを感じなかったほど」。
どんな病気やその治療にも共通することかもしれませんが、がん治療は個人の状況によってさまざまです。どれくらいの期間になるのか、体調はどんなふうに変化するのか。先の読めない生活を乗り切るうえで欠かせないのは、自分の人生観を見つめなおし、それを支える大切なものや譲れないもの、あるいはこれはあきらめても仕方がないかもしれない、などといった自分なりの処方箋というべき「納得点」を見出すことなのかもしれません。
【がんサバイバー体験記:前編】上咽頭がんステージ3、仕事の夢を叶えた矢先の宣告。治療終了から13年が経過。伊勢 智一さんの場合
「がん」という病気について語るとき、「2人に1人がかかる病気です」という言われ方をします。珍しくないよ、誰でも罹患する可能性が高い病気だよ、とセットで語ることで、過度に恐れず正しい情報をもとに適切な治療をしよう、というプラスのメッセージを想起します。一方で、アメリカと比較すると日本はがんにかかる人数が増えており、乳がんで見ると日本は死亡率が上昇しています。これは先進国でも珍しい現象だそうです。
いずれにしろ、いくら治療が進化し治癒する確率が上がったとは言え、命を落とす原因のトップはいまだがんなのです。(※)全年齢の死亡原因総数。出典:厚生労働省「死亡順位」
実は身近にいらっしゃる「がんサバイバー」の方々。念願の海外赴任を叶え充実した日々でがんが発覚した伊勢 智一さんの場合
「2人に1人がかかるがん」は、それでもやはり充分な警戒が必要であること、そして、そうした性質を伴う病気だからこそ、個人それぞれの生き方や死生観、そうしたものが影響するために治療生活は千差万別となるのです。今回インタビューにご協力くださったのは、伊勢
智一さん。2009年8月に上咽頭がんのステージ3と宣告され、過酷な治療を終えたあと現在に至るまで再発もなくエネルギッシュに生活を送っています。とはいえ、治療によって後遺症が生じ、それまで気にする必要のなかった体の変化と共に生きていくことは困難や苦労、そして新たな発見もある、いわば第二の人生ともいえるのかもしれません。
伊勢さんのように、特にご自分からがん体験を積極的にお話こそしていないけれど体験者である「がんサバイバー」は、社会にたくさんいらっしゃいます。私たちはそうした1人のがん体験を知ることで、自分に、そして社会にどう活かしていくことができるのでしょうか。
現在も上場企業で勤務中の伊勢 智一さんは1960 年生まれ、大学院を卒業後、 24 歳から一部上場企業に勤務され、第一線で活躍されているビジネスパーソンです。 24 歳での就職以来、岡山、大阪、東京、倉敷、アメリカ、兵庫と、海外赴任も含め、各地で勤務をしてきました。社会に出たころから海外で活躍することを夢に、仕事のかたわら独学で英会話の勉強を続けてきた努力家。また、30歳で糖尿病を発症し34歳で1型糖尿病と診断され、インスリン治療を行なってきたことから、一般の健康な社会人よりはご自分の体調管理や健康管理に気をつけてこられたと想像できます。
念願かなってアメリカのヒューストンで勤務をしていた2009年。当時高校生、中学生だった二人の息子さんの生活をなんとか安定して前進させることに奔走しつつ、もともと日頃から海外出張は頻繁にあり、学会で英語でプレゼンテーションすることにも慣れていた伊勢さんにとって、夢を叶えた仕事環境は刺激的で充実したものだったようです。
耳に感じた違和感が前兆。特に支障がなかったことで楽観していたものの、大学病院の診断で上咽頭がんの診断がおりる
「本場のハロウィーンやクリスマスなどを楽しみ、家族も新しい環境に慣れていったころです。ある日、左耳に違和感があることに気がつきました。飛行機を降りた時に、上空と地上の気圧差で耳がツーンとなることが誰にもあると思いますが、やがて消えるものです。ところが私の左耳は詰まった感じがいつまでも取れないのです。鼻をつまんで口も閉じて息を吹くと、右耳は息が抜けましたが左は抜けません。またそれ以降、ときどき出る痰に血が混じっていることがありました」。ヒューストン滞在1年、これが最初のサインと今にしてみれば思えるところですが、当時はそれ以外になんら支障もなく、現地の耳鼻科では炎症との診断で抗生剤を処方されただけだったため、本格的な診断は日本に一時帰国したときにでもすればいいだろう、と考えたと言います。
そして、「赴任一年で一時帰国した際に近所の耳鼻科で診てもらうと大学病院へ行くようにと紹介状を渡され、その後大学病院に行き詳しく調べたところ、上咽頭がんと診断されました。喉と耳の穴が合流するあたりに腫瘍ができてそれが左側にあったため、左耳が詰まる症状になっていたのです。この場所は手術で腫瘍を取ることができないため、放射線治療と化学治療(抗がん剤)の併用になると言われました。少なくとも2ケ月の入院が必要との診断で、すぐに上司に報告したのです。私としては念願叶って赴任した米国駐在をたった1年で終えることは避けたかったですし、赴任地のテキサス州ヒューストンは世界的にも医療先進地域であったため、現地での治療を希望しますと上司に伝えました。しかしその後、海外生活の長いその上司から、ヒューストンで治療生活を送ると家族の負担がより一層大きくなる、と告げられたことから現地での治療を断念し帰国して日本で治療することにしました。
これに伴い私の米国駐在の任は解かれ、日本へ帰任となってしまいました。あれほど思い焦がれた海外勤務があっけなく終わってしまい、病気になったことより海外勤務が終わったことの方が、私には大きなショックでした」。でも結果的にはこれは賢明な判断だったと今となっては思います。後述のとおり日本では100日間の入院となりましたが、アメリカでは長期入院は難しく短期間で退院させられるようですので、そうなったら家族の生活は成り立たなかったことでしょう。
伊勢さんの病状は上咽頭がん、ステージ3。2023年現在でこの状態の5年生存率は2~3期で60~80%となっていますが、伊勢さんが罹患した2009年当時、上咽頭がんのステージ3では5年生存率は今よりも低い状態でした。それくらい、がんの治療の進歩は非常なスピードで進化していいます。ご自分で当時、病気についてどのくらいの情報を得ていたのでしょうか?
66kgの体重が49kgにまで減少。放射線と抗がん剤の過酷な副作用に苦しんだ過去。それでも「もっともつらかったのは家族のケアをできなかったこと」
「ネット検索のみでしたが、そのとき必要な情報は充分得られたと思っています。というか、実際にはネット検索をするしか時間がなかった、というのもありました。あとは治療を受けることになる大学病院の診断時の話など、セカンドオピニオンは受けませんでした。治療内容は放射線治療 70Gy
(2Gy×35回)、抗がん剤のシスプラチン投与を3クール行うというものでした。当時、病気や治療に関して不安はあったものの疑問を抱く余地はなく、とにかく一刻も早く病気を治して仕事復帰すること、そして家族の生活を立て直すこと、これしか念頭にありませんでした。お金の面もがん保険に入っていましたがから個室で入院もできましたし、懸念はありませんでした。
始まった放射線治療は痛くもかゆくもありませんでしたが、回数を重ねるにつれ喉全体が口内炎となり、ひどい痛みで水も飲めなくなってしまいました。そのうえ、抗がん剤の副作用で何かひと口食べても吐き気に襲われ、まったく口から栄養を摂れなくなってしまい、抗がん剤治療も本来3クール予定だったのですが、抗がん剤の作用で下がった白血球数がなかなか戻らなかったため、2クールで中止になったのです」。
このとき、入院前に66 kg あった伊勢さんの体重は49kg まで減ってしまい、白血球数も大幅に減少していたことから体力を回復させるまで入院が必要となり、入院生活は3ヶ月を超えたのでした。屈強な働き盛りの男性の体重が49kgにまで落ちるほどダメージを得た治療は、想像に余りある過酷さです。やはり体調が一番つらかったことになるのでしょうか。
「いえ、もちろん治療は本当につらかったのですがそれ以上に、海外赴任から即入院となってしまったことで家族のケアがまったくできなかったことがしんどかったです。とくに長男の高校編入がなかなか決まらなかったことが心配でたまりませんでしたねぇ」。今では二人の息子さんも社会人になり、確実に歳月は過ぎていきます。
治療を終え今年で13年、次回は治療以降の伊勢さんの生活についてお話をお聞きします。
【前編】仕事のこと家族のこと、「いつか来る未来」に淡く希望を託すのをやめた。今やらなければ死にきれないという覚悟で1日を生きる。起業家 中村 優志さん
「将来の夢」。この言葉に前提として「この先もずっと生きている未来」が含まれていることに気がつくのは、「明日が来るのが当たり前ではないかもしれない」という事実に直面したときかもしれません。それがまだ20代の青年であればなんら不思議のないこととして未来に想いを寄せるもの。現在、若き起業家として “日本酒” に焦点を充てて活動する中村 優志さんは、28歳でまさにそうした体験をしました。起業家として事業に対して中長期のビジョンを持ちつつも、ひとりの人間としての視点では “今日を生き切る” ことに価値観をシフトした原点についてお話をお聞きしました。
28歳でがん宣告。青年社長は高校生へも自身のがん体験を伝えていく。未来ある若者に「今をどう生きるべきか」問いかける
取材現場にさっそうと現れた株式会社リシュブルーの代表である中村 優志さんは、年相応のいかにも健康そうな青年そのものです。言われなければわずか2年前にがんの治療を受けていたとは信じられないほど。しかし中村さんは、ご自身のがん体験を積極的に発信することも会社経営と同等に大切にしているそうです。
「がん体験によって本当にたくさんのことが変化しました。以前は自分の考えを自ら発信することがそこまで得意ではなかったのですが、今はがん体験を含め積極的に発信するようになりました。僕の話がすべての人に刺さることはなくても、刺さる人もいるだろう、たった一人であっても僕の話で元気になってくれたらいいな、とそういう思いで発信しています。特にがん体験については都立高校ががん教育を始めたことから、高校生へ向けて講演活動も行っているんですよ」。そして、もっとも変化したことについては「考え方です」と、きっぱり。
「人間いつ死ぬかわからない。28歳でがんに罹患してから考え方がそのように変わりました。以降は、今日までの行動に対して明日死んだとしたら?後悔はなかった?と自問するようになりました。たとえば5年、10年後に向けてやりたいことがあったとして “今日も精いっぱいそこに向かっている” という自覚を持って生きるのと、“やりたいことはあるけどそれってなんとなく10年後くらいでしょ”という感覚で生きているのとでは、仮に明日死んだら?と問いかけたときに本気度も納得も違う。やりたいことがあるのなら、今すぐに取り組んでやろうとなったのが、一番変化したことです」と語ります。
起業はいつかできればいいと思っていた。順調なキャリアアップから「即行動へ」とシフトした契機とは
大学卒業以降に歩んできた金融業界での順調なキャリアを大きくシフトした中村さんですが、それまでは三井住友銀行の法人セクションで培った実績をもとにして、管理職のポストを用意されアクサ生命保険に転職を果たしています。ところが入社後半年にも満たないうちがんが発覚したのです。
「当時いろいろキャリアを描いていた矢先。新天地での仕事はさまざま構想していたタイミングでしたし、会社側も新しい支店を立ち上げるプロジェクトのリーダーとして登用してくれることになっていました。半年でそれらが崩れて一気にがくっとはなりましたよ、さすがに。けれど、がんの体験はさまざまな意味で転機になって人生を見つめ直すことになりました。アクサ在籍中に、頭のなかにあった起業を実現できたらな、と思うようになり、事業構想1年半ほどで2022年に会社を立ち上げて今に至ります。
学生時代からいつか起業を、と考えていました。でも銀行というのは大変巨大な組織ですから管理職へ進んでステップを踏んでいくことを考えても、少なくとも10年以上かかる。ちょっとそれは待ちきれないぞ、と思っていたときに管理職で新規事業への参加という条件で迎えてくれた企業へ転職したのも、起業の夢へ近づくためでもあったのです」。
しっかりとご自身の計画のもと夢へ踏み出していたさなかの突然のがん体験は、「やりたいなら今やるべきだ」と一刻もむだにできないという衝動となり、即座に実行に移すこととなったのです。
生殖に関わるがんゆえに、漠然としていた家族との計画にもたらされた転換点。宣告時に重要な意思決定が迫られる現実
中村さんの罹患したがんは精巣がんでステージ1のC。10万人に1人と言われる稀ながんで、比較的若年層に多く発症するがんとされています。宣告時、既にご結婚もしていました。他の臓器と異なり生殖に関わる部位に発症したがんは、若いお二人に大きな動揺となったことは想像に難くありません。
「当時まだ新婚でしたし、具体的に子どもをどうしようなどの話すらしていませんでした。ですが今度は目の前の現実問題として直面し、抗がん剤治療をすると子どもができにくくなるとも聞いて。でもこれからかかるお金のこともあるし、病気になった体のこともあるしで、正直当時子どものことまで考える余裕がなかったというのが本音。それでも、見通しがつかないこの先に、どういう転換点が起きるかわからなかったものですから、精子は大学病院で冷凍保存をしています。今後の家族としての計画、あるいはこれからの妻と生きていく人生を考えるきっかけになったと思います」と、語る中村さんですが、実際、がん宣告をされるといっぺんに考え意思決定をしないとならない問題に直面します。
それは治療法の選択や仕事への影響と手続き、治療期間中のお金のことなど、どれも重い内容ばかりです。本来であれば余裕をもって考えていきたいことすらも猶予がありませんでした。そのとき、ご家族や職場はどういった受け止め方だったのでしょうか。
「妻に対しては新婚間もない時期に突如、身体のことに始まりお金のことだとか、いろんな心配をかけてしまっていることが申し訳なくつらかったです。ですが、妻からしてみると僕が自分のことだけでなく、妻にかけている負担を案じている状態がかえってつらかったみたいで…。それぞれの立場から互いを思い合っていたこのだと思います。
職場は幸いにも保険会社でしたので、がんに対する理解も深く柔軟に対応してくれました。スムーズに休めるようにしてくれたので、なんの支障もありませんでしたから、仕事においては懸念のない状態で治療生活に進むことができたのです」。
中村さんの人生観を大きく変えたがん体験とは、どういったものだったのでしょうか。そして、その体験を乗り越えて今、どんな視座に立ち日々を生きているのか。後編につづきます。
中村 優志
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1992年東京都生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業後2016年4月都市銀行法人セクション部に入社。5年間本店と長野支店を経たのち2021年3月フランス系保険会社に最年少管理職候補として転職。在職中の2021年7月精巣腫瘍が発覚。2022年6月株式会社リシュブルーを創業、代表取締役として“日本酒”に焦点を充てた事業を展開している。
