コラム
【保険買取利用者インタビュー】がんと向き合う経営者の選択:生命保険の売却資金で事業継承を盤石に
「残された人たちが自由に資金を使えるように」。会社経営者であるAさんが「マネックスの保険買取」によって、自身の生命保険の売却による資金調達を選んだのは、がんの再発がわかった2024年の4月から数えてわずか3ケ月後の7月のことでした。生命保険の買取という日本でまだなじみの少ない資金調達方法を知った時点で、まだ先行する事例は少なく、Aさんが「マネックスの保険買取」の最初の利用者となります。治療と仕事を両立しつつ、「後進による会社経営にできるだけお金の心配がないようにしてあげたい」という思いから、Aさんが選んだ事業継承のかたちについて詳しくお話を聞きました。
▼お話を伺った方
Aさん(58歳 男性/会社経営者)2021年に肝内胆管がんを罹患し、手術による治療を行うも2024年に再発しステージⅣ(取材時)の診断を受け治療にあたっている。掛け捨て型の生命保険契約(法人契約)を、「マネックスの保険買取」で売却した。保険金額は4000万円、解約返戻金額がゼロであるところ2,650万円で買取を実施した。
最初のがん治療から3年ほどで再発。「手術ができない」と告げられる

がんの再発がわかったとき、主治医から告げられたのは「今回、手術はできない」ということでした。私はもともと2021年に最初のがん治療で手術をしていたので、積極的な治療法として今回もできれば手術を個人的には望んでいたのです。ところが、残念ながら主治医の説明では、いろいろな事情によって難しいということだったのです。それで、自分自身の健康管理をどれだけ長期にわたってやっていけるかということに、今後の治療方針を定めていったわけですが、再発がわかってからひと月ほどは悩みました。同時に、「会社のことをどうしていこうか」という問いがずっとありましたので、それに対して腹がくくれたのは、そこからさらに2ヶ月が経ったころでした。
少しさかのぼって最初にがんがわかったときの話をしますと、2019年には検査で影が映っていたものの、当時の担当医は大丈夫だろうと判断し、そのままにしていたんですね。その後、2020年の12月に総合病院の皮膚科で診療を受けた際に「去年撮った映像を見たのですが、これはちょっと詳しく調べた方がいいですよ」と言われました。そこで検査をしてみると、あのときの影がかなり大きくなっていたのです。
明けて2020年に入ってからも経過観察をしていたのですが、2021年になった頃には5センチを超えるほどになってしまい、そこから手術が決定しました。手術をしたら社会復帰まで半年ほどかかると言われ、「それなら、再発さえしなければ共存していけるのかもしれないな」と当時は期待を持って考えていました。
けれどがんというのは思いどおりにはいきませんね。それから3年強ほどで再発となってしまい、手術もできない病状ということに至ったわけですから。
治療の選択肢が限られるなか、自分の残りの時間を「会社のために」使おうと決意

最初の宣告はもちろんですが今回の再発の宣告と、余命について医師から話があったときは正直なところ、やっぱりきつかったですね。とにかく「治療の選択肢が限られた」ということがきつかった。外科手術で病巣を取ることができないという衝撃に加えて、既に骨に転移がわかったのです。がんはやがて、全身に広がっていきもぐらたたきになるだろう、と想像しました。
「手術で根本の病巣を切除できないので、これ以上他に散らばららないように治療をする」という選択しか残されていないのか、という事実にとても打ちのめされる思いがしました。
しかし同時に、「病気に対して打つ手がないのなら、今のうちにやれることをやらなくては」と考えるようにもなりました。今の会社を一緒にやってきた従業員は、私にとって家族同然。私の最後の時間は、彼らのために全力を注ごう。そう決めたのです。
会社の経営に必要不可欠な「金銭」を次世代に残すために。新たな資金調達法として「保険買取」を知る
そこから会社の今後について、さまざまな選択肢を調べ上げ吟味していきました。特に重視したのがお金、資金調達でした。それというのも、社長である私自身が会社経営から抜けたとき、ではなにで補填できるだろう?と考えると金銭的な価値を遺していくことが不可欠です。そんなとき、たまたまテレビで「マネックスの保険買取」のニュースを見たわけです。
「生命保険の買取」という資金調達方法については、もともと教え子がファイナンシャルプランナーをしていた関係でアメリカでは一般的であることを聞いて知っていたんですね。当時は「そうは言っても日本ではありえないだろう」と考えていました。ところが、テレビでそのニュースを見たときというのが、自分自身がちょうどさまざまな資金調達方法を検討しているタイミングだったもので、すぐに問合せをしてみたのです。
なんせネットで調べても詳しいことがわからない。じゃあ聞いてみよう、ということで問い合わせると、マネックスの保険買取の社長さんと直接話すことができました。そこでいろいろとやり取りをさせていただきながら、もちろん他の方法とも比較検討した結果、最終的に生命保険を売却して資金を得ることを選んだのです。
元気なうちに自分の意志で資金の使用方法を決められる自由に加え、借入をせず事業継承ができる利点

当時他に検討していた方法としては、銀行借り入れや自己資金を増資するなどでしたが、実際コロナ禍で行った借入の返済額を、これ以上増額するのは現実的ではありませんでした。
最終的な決め手となったのは、「自分が今、決めることができる」ということ。死後に保険金が下りた場合、資金の使用方法を私が決めることができませんが、まだ元気なうちに今後どのように資金を使用するのか?という点を自ら決めることができるので、会社に資金を遺し、彼らがこれから経営するうえで自由に使うことができます。そしてなにより、私が元気なうちに相談に乗りながらスムーズに継承していくことができると考えたわけです。
もうひとつ、生命保険は借入金ではないので今からマイナスとなることがないでしょう。なので、財務的にもいろいろな選択肢が持てると思います。私自身は会社に対してどうこうという考えはもうなく、次の世代に継承することで自分の役目はひとつ終わりだと考えています。ちょうど年齢的にも事業継承のことは考えないといけないな、と思ってはいたので、思い切ってこの機に踏み切ることにしたのです。
であれば、新たな借入をしないとならない状態で継承するのではなく、安心して資金が回っていく財務体質づくりにも貢献できる方法ではないか、とも思ったのです。これにより、前倒しで事業継承を進めていくことができるわけですね。
わからないことだらけでも、納得するまで質問に答えてもらって決断へ。すぐに社内体制も刷新し、念願の事業継承に着手

買取に関しては、処理は非常にスムーズでした。一方でなにしろ初めてのことですから、参考とする他の情報もなく、「どのようにしたらいいのか」や、提示された金額が適切なのか?といった疑問については、社長さんと何度もやり取りを重ねました。非常に丁寧に質問にも答えていただきましたし、メールの返信がとても迅速だったので助かりましたね。
私が最初の利用者ということで、不安はなかったのか?と聞かれますが、それは特に感じませんでした。唯一、残念だったのは金額の差でしょうか。私の保険契約は、無解約返戻金型定期保険(法人契約)で、買取にすると4,000万円の保険金額が2,650万円にまでダウンしてしまいました。ただ、私はこの差額でもメリットの方が上回ると判断していたので、デメリットと感じることはありませんでした。つまり、「金額は下がっても自由度が上がった」と解釈し、実行に移したわけです。
そうした経緯を踏まえ、従業員に私の病気の現状について、そして安心して事業継承ができることを伝えることができました。早速着手したのは、社内の責任分担を明確にし、新体制を敷くことでした。金融機関等へはまだ私が代表として業務を行いますが、それ以外の現場業務は既に若手へ譲ることができました。
「新たな資金調達法として経営者に特に知ってほしい」。安心は生きる力になる

自分自身の意思でこうした決定を執ることができたことで、安心を得られたこと、そしてそれが生きる力につながっていると感じています。私は今回、自分の事例をオープンに話すことで、多くの同じようにがんに罹患する方々にこのような新しい資金調達の方法を知ってほしいと考えているのです。自分が生きているうちにお金の使途を選択ができるサービス、制度について知ることで、力になる人は多いはずなんです。
もうひとつ、ひとたび生命保険の契約をしたら生涯で支払う金額は相当のもの。このトータルで支払う金額と、支払われる保険金額とを改めて考えてみると、ある種相当保険会社に有利な仕組みと言わざるを得ないでしょう。それに対して、「保険の買取」サービスの認知が広がっていった場合、保険料自体の考え方も変わってくるかもしれません。また、買取事業が進めば、こうした選択肢も広く知られることで、かえって保険加入者も増える可能性もあるでしょう。
経営者の方で、借入しか選択肢がないことで非常に厳しい状態を続けておられる方がいらっしゃると思うんですね。私は今回、病気自体はアンラッキーでしたが、このような形で資金調達をできたことはラッキーでした。他に同様なケースの経営者の方がおられても、こうしたサービスを知らなければ使うことができません。「帳簿を悪化させることなく資金調達ができる」のは、現状保険の買取くらいではないでしょうか。
2024年に医師から宣告された余命は最短で11ヶ月というものでしたが、それはクリアすることができました。最長でも24ヶ月と言われましたが、私はその2倍を目標にがんばると決めています。だって医者というのは短めに言うものだろうと思いますから。
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【がんサバイバー体験記:後編】治療後の第二の人生は後遺症と共に。けれどいつだって解決策は自分で切り拓く 伊勢 智一さんの場合
海外赴任中に体調を崩し、がんの治療のため日本に帰国した伊勢 智一さん。家族のために強い気持ちを失わず治療に向かった伊勢さんですが、放射線治療と抗がん剤治療によって体は深刻なダメージを受けました。治療終了から13年が経つ現在、伊勢さんはどのような生活を過ごしているのでしょうか。前編はこちらから
再発はない。けれど治療後の生活は、後遺症のある体で生きていく日々。かつて当たり前だったことに困難を感じながら、自分で解決策を見出していく
「入院期間が100日を超え、その後は自宅で体力回復のための療養生活に。激減してしまった体重は少しずつ戻りつつも、歩いていても高齢者に追い抜かれるほど力を無くしてしまいました。翌年から仕事復帰をしましたが当初はリハビリ出勤のようなものでしたね。今では出張も趣味のゴルフも楽しめるようになりました。平日は朝6時半に起床、9時には出社。おおむね19時半ごろ帰宅をして寝るのは1時過ぎといったサイクルです」。
少しずつ体力を回復していきながら、現在の生活リズムとなっている伊勢さんですが、治療前と後とで体に変化がありました。
「リンパ転移対策で喉に放射線を当てたことで、唾液腺が機能しなくなり唾液が出なくなってしまったのです。それに喉もせまくなり、食事を摂ることが困難でそれは今も続いています。普通の人の半分の量を倍以上の時間をかけて食べるのですが、それでも追い付かず、自宅では夕食の完食に1時間もかかっています。
常に喉が渇くのでどうしたものかと試行錯誤しまして、結果カフェオレという解決策を発見しました。水やお茶は飲んでもすぐに胃に落ちてしまい喉が潤わないのですが、糖分と乳成分があるカフェオレはベスト。某メーカーのカフェオレ500mlを箱買いして毎日1本飲み、これまでに3000本以上消費しています。けれどそのせいで虫歯が進行してしまいました」。放射線治療の後遺症は、照射部位は違えどもおおむね伊勢さんのようにもともとの機能が失われてしまうことが多いのですが、「カフェオレ」という解決策は経験者ならではのお話です。

「それでも幸い味覚は失わなかったのですが、舌が過敏になったことで刺激物が食べられなくなりました。酸っぱいものや辛いものがダメ。水分の少ないもの、固いもの、粉状で喉に張り付くものは食べられません。いつも大量の水分で流し込むのですが、おかげで少量の食事でもお腹が張ってパンパンになるという弊害が…。そういったさまざまのことで食事が苦手になってしまいました。自分はそれでもいいのですが、食べにくそうにしている私を見ている妻に申し訳なくて。妻は食事をいろいろ工夫してくれるのですが、どうしてもスムーズに食べられないことがあります。食事の後はすべての歯の間に食べ物が詰まるので、歯磨き・うがいをしないと気持ち悪い。食後すぐに歯磨きに走るのは妻に申し訳ないなと感じつつも、どうしようもないのですよね」とのこと。味覚は残っても食べることが困難になる…。こうしたことも、経験者でないとわからず、職場や会食の機会などはつらい思いをなさってきたことと推察できます。
がんになったときも「がんが生活のすべて」にはならなかった。治療生活を支えたのは「家族を残して死ねない」という強い思い
13年の間、幸いなことに再発もなく過ごしていらっしゃいますが、がんを経験して改めて気をつけるようになったことについては、「健康第一を心がけていますが、もとより1型糖尿病で毎日血糖値を測りながらインスリンを注射し、診察も毎月受けているので、自然に健康管理はできています。長いこと生活自体がそのようになっていますね」と語ってくださいました。
伊勢さんはがんサバイバーですが、普段それを特別に意識することはありません。
「あまり意識していませんがあえて言うなら、がん対策は第一優先ではありませんでした。がんにかかった時も、5年生存率が当時50%となっていましたがまったく死ぬ気はなかったですし。それより家族を残して死ねない、無事に帰国後の家族の生活を構築しなければいけない、という思いだけで乗り切りました。当時、アメリカと日本を短期間で二往復しましたが、まったく時差ボケを感じなかったほど」。
どんな病気やその治療にも共通することかもしれませんが、がん治療は個人の状況によってさまざまです。どれくらいの期間になるのか、体調はどんなふうに変化するのか。先の読めない生活を乗り切るうえで欠かせないのは、自分の人生観を見つめなおし、それを支える大切なものや譲れないもの、あるいはこれはあきらめても仕方がないかもしれない、などといった自分なりの処方箋というべき「納得点」を見出すことなのかもしれません。
【がんサバイバー体験記:前編】上咽頭がんステージ3、仕事の夢を叶えた矢先の宣告。治療終了から13年が経過。伊勢 智一さんの場合
「がん」という病気について語るとき、「2人に1人がかかる病気です」という言われ方をします。珍しくないよ、誰でも罹患する可能性が高い病気だよ、とセットで語ることで、過度に恐れず正しい情報をもとに適切な治療をしよう、というプラスのメッセージを想起します。一方で、アメリカと比較すると日本はがんにかかる人数が増えており、乳がんで見ると日本は死亡率が上昇しています。これは先進国でも珍しい現象だそうです。
いずれにしろ、いくら治療が進化し治癒する確率が上がったとは言え、命を落とす原因のトップはいまだがんなのです。(※)全年齢の死亡原因総数。出典:厚生労働省「死亡順位」
実は身近にいらっしゃる「がんサバイバー」の方々。念願の海外赴任を叶え充実した日々でがんが発覚した伊勢 智一さんの場合
「2人に1人がかかるがん」は、それでもやはり充分な警戒が必要であること、そして、そうした性質を伴う病気だからこそ、個人それぞれの生き方や死生観、そうしたものが影響するために治療生活は千差万別となるのです。今回インタビューにご協力くださったのは、伊勢
智一さん。2009年8月に上咽頭がんのステージ3と宣告され、過酷な治療を終えたあと現在に至るまで再発もなくエネルギッシュに生活を送っています。とはいえ、治療によって後遺症が生じ、それまで気にする必要のなかった体の変化と共に生きていくことは困難や苦労、そして新たな発見もある、いわば第二の人生ともいえるのかもしれません。
伊勢さんのように、特にご自分からがん体験を積極的にお話こそしていないけれど体験者である「がんサバイバー」は、社会にたくさんいらっしゃいます。私たちはそうした1人のがん体験を知ることで、自分に、そして社会にどう活かしていくことができるのでしょうか。
現在も上場企業で勤務中の伊勢 智一さんは1960 年生まれ、大学院を卒業後、 24 歳から一部上場企業に勤務され、第一線で活躍されているビジネスパーソンです。 24 歳での就職以来、岡山、大阪、東京、倉敷、アメリカ、兵庫と、海外赴任も含め、各地で勤務をしてきました。社会に出たころから海外で活躍することを夢に、仕事のかたわら独学で英会話の勉強を続けてきた努力家。また、30歳で糖尿病を発症し34歳で1型糖尿病と診断され、インスリン治療を行なってきたことから、一般の健康な社会人よりはご自分の体調管理や健康管理に気をつけてこられたと想像できます。
念願かなってアメリカのヒューストンで勤務をしていた2009年。当時高校生、中学生だった二人の息子さんの生活をなんとか安定して前進させることに奔走しつつ、もともと日頃から海外出張は頻繁にあり、学会で英語でプレゼンテーションすることにも慣れていた伊勢さんにとって、夢を叶えた仕事環境は刺激的で充実したものだったようです。
耳に感じた違和感が前兆。特に支障がなかったことで楽観していたものの、大学病院の診断で上咽頭がんの診断がおりる
「本場のハロウィーンやクリスマスなどを楽しみ、家族も新しい環境に慣れていったころです。ある日、左耳に違和感があることに気がつきました。飛行機を降りた時に、上空と地上の気圧差で耳がツーンとなることが誰にもあると思いますが、やがて消えるものです。ところが私の左耳は詰まった感じがいつまでも取れないのです。鼻をつまんで口も閉じて息を吹くと、右耳は息が抜けましたが左は抜けません。またそれ以降、ときどき出る痰に血が混じっていることがありました」。ヒューストン滞在1年、これが最初のサインと今にしてみれば思えるところですが、当時はそれ以外になんら支障もなく、現地の耳鼻科では炎症との診断で抗生剤を処方されただけだったため、本格的な診断は日本に一時帰国したときにでもすればいいだろう、と考えたと言います。
そして、「赴任一年で一時帰国した際に近所の耳鼻科で診てもらうと大学病院へ行くようにと紹介状を渡され、その後大学病院に行き詳しく調べたところ、上咽頭がんと診断されました。喉と耳の穴が合流するあたりに腫瘍ができてそれが左側にあったため、左耳が詰まる症状になっていたのです。この場所は手術で腫瘍を取ることができないため、放射線治療と化学治療(抗がん剤)の併用になると言われました。少なくとも2ケ月の入院が必要との診断で、すぐに上司に報告したのです。私としては念願叶って赴任した米国駐在をたった1年で終えることは避けたかったですし、赴任地のテキサス州ヒューストンは世界的にも医療先進地域であったため、現地での治療を希望しますと上司に伝えました。しかしその後、海外生活の長いその上司から、ヒューストンで治療生活を送ると家族の負担がより一層大きくなる、と告げられたことから現地での治療を断念し帰国して日本で治療することにしました。
これに伴い私の米国駐在の任は解かれ、日本へ帰任となってしまいました。あれほど思い焦がれた海外勤務があっけなく終わってしまい、病気になったことより海外勤務が終わったことの方が、私には大きなショックでした」。でも結果的にはこれは賢明な判断だったと今となっては思います。後述のとおり日本では100日間の入院となりましたが、アメリカでは長期入院は難しく短期間で退院させられるようですので、そうなったら家族の生活は成り立たなかったことでしょう。
伊勢さんの病状は上咽頭がん、ステージ3。2023年現在でこの状態の5年生存率は2~3期で60~80%となっていますが、伊勢さんが罹患した2009年当時、上咽頭がんのステージ3では5年生存率は今よりも低い状態でした。それくらい、がんの治療の進歩は非常なスピードで進化していいます。ご自分で当時、病気についてどのくらいの情報を得ていたのでしょうか?
66kgの体重が49kgにまで減少。放射線と抗がん剤の過酷な副作用に苦しんだ過去。それでも「もっともつらかったのは家族のケアをできなかったこと」
「ネット検索のみでしたが、そのとき必要な情報は充分得られたと思っています。というか、実際にはネット検索をするしか時間がなかった、というのもありました。あとは治療を受けることになる大学病院の診断時の話など、セカンドオピニオンは受けませんでした。治療内容は放射線治療 70Gy
(2Gy×35回)、抗がん剤のシスプラチン投与を3クール行うというものでした。当時、病気や治療に関して不安はあったものの疑問を抱く余地はなく、とにかく一刻も早く病気を治して仕事復帰すること、そして家族の生活を立て直すこと、これしか念頭にありませんでした。お金の面もがん保険に入っていましたがから個室で入院もできましたし、懸念はありませんでした。
始まった放射線治療は痛くもかゆくもありませんでしたが、回数を重ねるにつれ喉全体が口内炎となり、ひどい痛みで水も飲めなくなってしまいました。そのうえ、抗がん剤の副作用で何かひと口食べても吐き気に襲われ、まったく口から栄養を摂れなくなってしまい、抗がん剤治療も本来3クール予定だったのですが、抗がん剤の作用で下がった白血球数がなかなか戻らなかったため、2クールで中止になったのです」。
このとき、入院前に66 kg あった伊勢さんの体重は49kg まで減ってしまい、白血球数も大幅に減少していたことから体力を回復させるまで入院が必要となり、入院生活は3ヶ月を超えたのでした。屈強な働き盛りの男性の体重が49kgにまで落ちるほどダメージを得た治療は、想像に余りある過酷さです。やはり体調が一番つらかったことになるのでしょうか。
「いえ、もちろん治療は本当につらかったのですがそれ以上に、海外赴任から即入院となってしまったことで家族のケアがまったくできなかったことがしんどかったです。とくに長男の高校編入がなかなか決まらなかったことが心配でたまりませんでしたねぇ」。今では二人の息子さんも社会人になり、確実に歳月は過ぎていきます。
治療を終え今年で13年、次回は治療以降の伊勢さんの生活についてお話をお聞きします。
【前編】仕事のこと家族のこと、「いつか来る未来」に淡く希望を託すのをやめた。今やらなければ死にきれないという覚悟で1日を生きる。起業家 中村 優志さん
「将来の夢」。この言葉に前提として「この先もずっと生きている未来」が含まれていることに気がつくのは、「明日が来るのが当たり前ではないかもしれない」という事実に直面したときかもしれません。それがまだ20代の青年であればなんら不思議のないこととして未来に想いを寄せるもの。現在、若き起業家として “日本酒” に焦点を充てて活動する中村 優志さんは、28歳でまさにそうした体験をしました。起業家として事業に対して中長期のビジョンを持ちつつも、ひとりの人間としての視点では “今日を生き切る” ことに価値観をシフトした原点についてお話をお聞きしました。
28歳でがん宣告。青年社長は高校生へも自身のがん体験を伝えていく。未来ある若者に「今をどう生きるべきか」問いかける
取材現場にさっそうと現れた株式会社リシュブルーの代表である中村 優志さんは、年相応のいかにも健康そうな青年そのものです。言われなければわずか2年前にがんの治療を受けていたとは信じられないほど。しかし中村さんは、ご自身のがん体験を積極的に発信することも会社経営と同等に大切にしているそうです。
「がん体験によって本当にたくさんのことが変化しました。以前は自分の考えを自ら発信することがそこまで得意ではなかったのですが、今はがん体験を含め積極的に発信するようになりました。僕の話がすべての人に刺さることはなくても、刺さる人もいるだろう、たった一人であっても僕の話で元気になってくれたらいいな、とそういう思いで発信しています。特にがん体験については都立高校ががん教育を始めたことから、高校生へ向けて講演活動も行っているんですよ」。そして、もっとも変化したことについては「考え方です」と、きっぱり。
「人間いつ死ぬかわからない。28歳でがんに罹患してから考え方がそのように変わりました。以降は、今日までの行動に対して明日死んだとしたら?後悔はなかった?と自問するようになりました。たとえば5年、10年後に向けてやりたいことがあったとして “今日も精いっぱいそこに向かっている” という自覚を持って生きるのと、“やりたいことはあるけどそれってなんとなく10年後くらいでしょ”という感覚で生きているのとでは、仮に明日死んだら?と問いかけたときに本気度も納得も違う。やりたいことがあるのなら、今すぐに取り組んでやろうとなったのが、一番変化したことです」と語ります。
起業はいつかできればいいと思っていた。順調なキャリアアップから「即行動へ」とシフトした契機とは
大学卒業以降に歩んできた金融業界での順調なキャリアを大きくシフトした中村さんですが、それまでは三井住友銀行の法人セクションで培った実績をもとにして、管理職のポストを用意されアクサ生命保険に転職を果たしています。ところが入社後半年にも満たないうちがんが発覚したのです。
「当時いろいろキャリアを描いていた矢先。新天地での仕事はさまざま構想していたタイミングでしたし、会社側も新しい支店を立ち上げるプロジェクトのリーダーとして登用してくれることになっていました。半年でそれらが崩れて一気にがくっとはなりましたよ、さすがに。けれど、がんの体験はさまざまな意味で転機になって人生を見つめ直すことになりました。アクサ在籍中に、頭のなかにあった起業を実現できたらな、と思うようになり、事業構想1年半ほどで2022年に会社を立ち上げて今に至ります。
学生時代からいつか起業を、と考えていました。でも銀行というのは大変巨大な組織ですから管理職へ進んでステップを踏んでいくことを考えても、少なくとも10年以上かかる。ちょっとそれは待ちきれないぞ、と思っていたときに管理職で新規事業への参加という条件で迎えてくれた企業へ転職したのも、起業の夢へ近づくためでもあったのです」。
しっかりとご自身の計画のもと夢へ踏み出していたさなかの突然のがん体験は、「やりたいなら今やるべきだ」と一刻もむだにできないという衝動となり、即座に実行に移すこととなったのです。
生殖に関わるがんゆえに、漠然としていた家族との計画にもたらされた転換点。宣告時に重要な意思決定が迫られる現実
中村さんの罹患したがんは精巣がんでステージ1のC。10万人に1人と言われる稀ながんで、比較的若年層に多く発症するがんとされています。宣告時、既にご結婚もしていました。他の臓器と異なり生殖に関わる部位に発症したがんは、若いお二人に大きな動揺となったことは想像に難くありません。
「当時まだ新婚でしたし、具体的に子どもをどうしようなどの話すらしていませんでした。ですが今度は目の前の現実問題として直面し、抗がん剤治療をすると子どもができにくくなるとも聞いて。でもこれからかかるお金のこともあるし、病気になった体のこともあるしで、正直当時子どものことまで考える余裕がなかったというのが本音。それでも、見通しがつかないこの先に、どういう転換点が起きるかわからなかったものですから、精子は大学病院で冷凍保存をしています。今後の家族としての計画、あるいはこれからの妻と生きていく人生を考えるきっかけになったと思います」と、語る中村さんですが、実際、がん宣告をされるといっぺんに考え意思決定をしないとならない問題に直面します。
それは治療法の選択や仕事への影響と手続き、治療期間中のお金のことなど、どれも重い内容ばかりです。本来であれば余裕をもって考えていきたいことすらも猶予がありませんでした。そのとき、ご家族や職場はどういった受け止め方だったのでしょうか。
「妻に対しては新婚間もない時期に突如、身体のことに始まりお金のことだとか、いろんな心配をかけてしまっていることが申し訳なくつらかったです。ですが、妻からしてみると僕が自分のことだけでなく、妻にかけている負担を案じている状態がかえってつらかったみたいで…。それぞれの立場から互いを思い合っていたこのだと思います。
職場は幸いにも保険会社でしたので、がんに対する理解も深く柔軟に対応してくれました。スムーズに休めるようにしてくれたので、なんの支障もありませんでしたから、仕事においては懸念のない状態で治療生活に進むことができたのです」。
中村さんの人生観を大きく変えたがん体験とは、どういったものだったのでしょうか。そして、その体験を乗り越えて今、どんな視座に立ち日々を生きているのか。後編につづきます。
中村 優志
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1992年東京都生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業後2016年4月都市銀行法人セクション部に入社。5年間本店と長野支店を経たのち2021年3月フランス系保険会社に最年少管理職候補として転職。在職中の2021年7月精巣腫瘍が発覚。2022年6月株式会社リシュブルーを創業、代表取締役として“日本酒”に焦点を充てた事業を展開している。
【後編】今日をどう生き切るかが、明日をつれてくる!病気のつらさを知る者だからこそ、社会や人へ届けられる勇気がある。起業家 中村 優志さん
金融業界で順調なステップアップを果たしていた28歳のときに受けた突然のがん宣告。将来に抱いていた漠然とした夢や希望、家族と過ごす人生設計などが一度に現実のものとして立ち現れました。今ではがん体験を機に、大きく夢に向かっていきいきと生きる中村 優志さんですが、人生観をシフトした体験とは?また、立ち上げた事業ではどういった活動をしているのかについてお話をお聞きしました。
中村 優志
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1992年東京都生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業後2016年4月都市銀行法人セクション部に入社。5年間本店と長野支店を経たのち2021年3月フランス系保険会社に最年少管理職候補として転職。在職中の2021年7月精巣腫瘍が発覚。2022年6月株式会社リシュブルーを創業、代表取締役として“日本酒”に焦点を充てた事業を展開している。
がんの治療はテレビの世界でしか知らなかった。髪が抜けるくらいかと思っていた抗がん剤治療の本当のつらさにダウン
中村さんの罹患した精巣がんは、若年層に多く稀ながんでもあったとのことでしたね。どういった治療を受けたのでしょうか。当時、冷静に治療計画を考えられたのでしょうか。
「当時はもちろん今よりも若かったわけですが、冷静に情報を調べて行動していました。治療内容は、最初は病巣の摘出手術が終われば治療もおしまい、となぜか勝手に思っていたのですが、病理検査の結果、がん細胞が体内に残っている可能性も懸念としてある、ということに。医師からはやっておいた方がいいかもしれない、くらいの感じで化学療法、いわゆる抗がん剤治療を薦められました。自分で考えて、手術後3ケ月で抗がん剤治療をはじめたのです」。ここでまず、当初より治療生活が長くなったわけですね。
「ステージ1でも病理の結果で抗がん剤の必要があるのか、と自分でも思いました。当時は特に葛藤なく抗がん剤治療をやろうと思ったのですが、ただ、今ふり返ると二度と経験したくないですね…!そもそもそういう治療についてテレビの世界の話しか知らず、これを乗り切ったら安心できるんだ、と思い込んでいたところがあります。純粋に知識がなかったので判断の材料が浅く、結果気軽に治療に進めたわけです」と心境をふり返る中村さん。
治療の選択肢があるということは、生きる可能性が増えることでもあります。中村さんは医師が薦めたからというより、自分の納得で治療を進めました。
「年齢が若いと副作用が強く現れると聞いていましたが、副作用はホントにしんどかった。しんどいので寝るんですが、寝てもしんどいから目が覚める。そのとき唯一心配だったのは腎臓のこと。僕は腎臓が生まれつき1個しかないというのを、社会人になって行ったCT検査で偶然初めて知りました。
一般の人より腎臓1個が大きく、仮に糖尿病などになったら替えが利かないので気をつけるように、と日ごろから言われていました。ですが抗がん剤治療は腎臓にすごく負担がかかるんですよ。1日15,6回くらいトイレに行って薬剤を尿と一緒に排出しなくてはならず。当時はそのことがすごく心配でした。想定していたとおり、抗がん剤を始めて2週間くらいから髪はバッサーと抜けていきました」と語る現在の中村さんの頭髪はすっかりもとどおり。新しく生えそろったとき、不思議なことに髪質も変わっていたそうです。
治療に入る際に立てた計画ではお金もなんとかなるはずだった…。治療費だけでなく生活費もかかる生活、キャッシュの入るタイムラグに苦闘
ところで、中村さんは金融業界でお勤めでしたがお金の工面や備えはいかがでしたか?
「勤務先は年俸制だったので、有休の間は給与が出ました。ただ、休職期間は出なくなります。治療開始の最初の1ヶ月は有休を充てつつ、以降3ヶ月間の休職期間は健康保険の傷病手当金を支給されました。ある程度これで計画はできたな、と思いきや、手当が支給されたのは復職の3日前!タイムラグを見誤って、治療費と生活費の算段は本当にギリギリとなってしまいました。これもひとつ想定外であわてましたね。
あと、仕事柄20代でも医療保険、がん保険、生命保険には加入していたものの、結局積み立てていた個人年金は解約せざるを得なくなりました。治療前にお金の計画を立てていた際、数ヶ月先のところでこれだけ入ってくるな、という見込みをしていたんですが、待てよ、そこまでもたないぞ、と思って。行員時代から積み立てていたのですが返戻率も60%ほどで、元本割れしていましたが手元資金がないよりは、ということで解約に至ったんです」。
今でこそがんについての情報はたくさん入手できますが、それでも「個体別」ということを私たちは渦中にいるとあまり考えられないものです。1人ひとり、がんの状況も違うので一般に言われる治療期間もあくまで目安でしかなく、実のところどれくらいの期間にわたってどれくらいのお金が必要になるのか?は、個人それぞれのケースに拠るのですね。
中村さんのように金融の知識があっても20代で罹患したら充分なお金の備えは難しいものです。治療に懸念なく臨むためにも、お金の工面をするさまざまな選択肢があると心強くいられるのではないでしょうか。どうにもできずに生命保険の解約を考える場合には、ライフシオンにご相談いただくこともがん患者様にはお伝えしていきたいところです。
体は動かなくても考えることはやめなかった。ビジネスの構想を現実に移した生きる力。銀行員時代にたくさんの事業を見てきた視点を活かして
苦しい治療を乗り越え、見事夢だった起業を実現しましたね。
「ええ。人間はいつ死ぬかわからないな、という価値観になってから自分が今何をしたいか、何ができるか、そのためにどういうふうに動いていこうとか、とそういう考えになっていましたので、治療中も体こそ動けませんでしたけど頭は激しく動き続けていました。現在推進しているビジネスもそのときに着想していたものです」。
中村さんのビジネスは、銀行員時代にさまざまな業界に対して改善感度をもって事業を眺めていた経験が着想のヒントにもなっていたとか。

「日本酒に焦点を充て、関連する諸々を事業化していきます。酒蔵、酒造業界サイドに寄り添ったものですね。わかりやすいのはスキンケア商品の開発や輸出、他に酒蔵のラベルのリブランディングなども、新しい試みに関心をもってくれる酒蔵さんを対象にして取り組んでいます。また、業界的にデジタル化なども課題のひとつですから、デジタルを活用した効率化にも着手しているところです」と語る中村さんは、いかにも充実した日々が垣間見えます。
日本酒によるビジネスの可能性を示唆する、というビジョンのもと企業経営をしているなかで、業界で当たり前になっていることも異業種経験を積んできた中村さんのような新しい視点からビジネスとして見ると、新たな発見やブレークスルーの芽も生まれるはずです。
「構造など大きな点だけでなく、手前のブランディング、マーケティング、プロモーションでできることもたくさんあると思っています。今は自分が主体になってやりたいことをできるので会社員時代とは違う面白さ、充実を感じられますが、もちろん起業したゆえの困難にも日々ぶつかりまくっていますよ(笑)」。
今日明日あさってくらいにフォーカスして楽しんで生きること。今が明日をつくるという生き方がくれた充実
「そうした自分の意思決定に基づく生活を送れる日々にあって、長期的なことは考えなくなりました。人生設計と考えた際、人はまだまだ未来があると考えてしまうものですよね。僕は逆に、昔は人生設計を考えている方でしたが今はほとんど考えません。正直、今日明日、あさってくらいの事しか考えていない。いかにそこにフォーカスして楽しんで生きていけるか、と考え方が変わったのです」。
メガバンカー経験でおそらくは多数の“一瞬先はわからない”企業経営の現場を目の当たりにしてきた中村さんは、決して安楽に起業を考えてはいません。それでも強くこう言い切る姿から、今日という日が本当はかけがえのない貴重な一日として感じられるのではないでしょうか。
「今後の目標としては、まずは今日と明日を全力で生きる。これありきです。会社経営としては事業を大きくしていきたいです。そして、僕というフィルターを通してがんに限らず病気で苦しんでいる人たちを元気づけられたらいいな、と考えています」と、強い意思的なまなざしと共に持ち前のひと懐っこい笑顔を見せるのでした。