コラム
【後編】今日をどう生き切るかが、明日をつれてくる!病気のつらさを知る者だからこそ、社会や人へ届けられる勇気がある。起業家 中村 優志さん
金融業界で順調なステップアップを果たしていた28歳のときに受けた突然のがん宣告。将来に抱いていた漠然とした夢や希望、家族と過ごす人生設計などが一度に現実のものとして立ち現れました。今ではがん体験を機に、大きく夢に向かっていきいきと生きる中村 優志さんですが、人生観をシフトした体験とは?また、立ち上げた事業ではどういった活動をしているのかについてお話をお聞きしました。
中村 優志
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1992年東京都生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業後2016年4月都市銀行法人セクション部に入社。5年間本店と長野支店を経たのち2021年3月フランス系保険会社に最年少管理職候補として転職。在職中の2021年7月精巣腫瘍が発覚。2022年6月株式会社リシュブルーを創業、代表取締役として“日本酒”に焦点を充てた事業を展開している。
がんの治療はテレビの世界でしか知らなかった。髪が抜けるくらいかと思っていた抗がん剤治療の本当のつらさにダウン
中村さんの罹患した精巣がんは、若年層に多く稀ながんでもあったとのことでしたね。どういった治療を受けたのでしょうか。当時、冷静に治療計画を考えられたのでしょうか。
「当時はもちろん今よりも若かったわけですが、冷静に情報を調べて行動していました。治療内容は、最初は病巣の摘出手術が終われば治療もおしまい、となぜか勝手に思っていたのですが、病理検査の結果、がん細胞が体内に残っている可能性も懸念としてある、ということに。医師からはやっておいた方がいいかもしれない、くらいの感じで化学療法、いわゆる抗がん剤治療を薦められました。自分で考えて、手術後3ケ月で抗がん剤治療をはじめたのです」。ここでまず、当初より治療生活が長くなったわけですね。
「ステージ1でも病理の結果で抗がん剤の必要があるのか、と自分でも思いました。当時は特に葛藤なく抗がん剤治療をやろうと思ったのですが、ただ、今ふり返ると二度と経験したくないですね…!そもそもそういう治療についてテレビの世界の話しか知らず、これを乗り切ったら安心できるんだ、と思い込んでいたところがあります。純粋に知識がなかったので判断の材料が浅く、結果気軽に治療に進めたわけです」と心境をふり返る中村さん。
治療の選択肢があるということは、生きる可能性が増えることでもあります。中村さんは医師が薦めたからというより、自分の納得で治療を進めました。
「年齢が若いと副作用が強く現れると聞いていましたが、副作用はホントにしんどかった。しんどいので寝るんですが、寝てもしんどいから目が覚める。そのとき唯一心配だったのは腎臓のこと。僕は腎臓が生まれつき1個しかないというのを、社会人になって行ったCT検査で偶然初めて知りました。
一般の人より腎臓1個が大きく、仮に糖尿病などになったら替えが利かないので気をつけるように、と日ごろから言われていました。ですが抗がん剤治療は腎臓にすごく負担がかかるんですよ。1日15,6回くらいトイレに行って薬剤を尿と一緒に排出しなくてはならず。当時はそのことがすごく心配でした。想定していたとおり、抗がん剤を始めて2週間くらいから髪はバッサーと抜けていきました」と語る現在の中村さんの頭髪はすっかりもとどおり。新しく生えそろったとき、不思議なことに髪質も変わっていたそうです。
治療に入る際に立てた計画ではお金もなんとかなるはずだった…。治療費だけでなく生活費もかかる生活、キャッシュの入るタイムラグに苦闘
ところで、中村さんは金融業界でお勤めでしたがお金の工面や備えはいかがでしたか?
「勤務先は年俸制だったので、有休の間は給与が出ました。ただ、休職期間は出なくなります。治療開始の最初の1ヶ月は有休を充てつつ、以降3ヶ月間の休職期間は健康保険の傷病手当金を支給されました。ある程度これで計画はできたな、と思いきや、手当が支給されたのは復職の3日前!タイムラグを見誤って、治療費と生活費の算段は本当にギリギリとなってしまいました。これもひとつ想定外であわてましたね。
あと、仕事柄20代でも医療保険、がん保険、生命保険には加入していたものの、結局積み立てていた個人年金は解約せざるを得なくなりました。治療前にお金の計画を立てていた際、数ヶ月先のところでこれだけ入ってくるな、という見込みをしていたんですが、待てよ、そこまでもたないぞ、と思って。行員時代から積み立てていたのですが返戻率も60%ほどで、元本割れしていましたが手元資金がないよりは、ということで解約に至ったんです」。
今でこそがんについての情報はたくさん入手できますが、それでも「個体別」ということを私たちは渦中にいるとあまり考えられないものです。1人ひとり、がんの状況も違うので一般に言われる治療期間もあくまで目安でしかなく、実のところどれくらいの期間にわたってどれくらいのお金が必要になるのか?は、個人それぞれのケースに拠るのですね。
中村さんのように金融の知識があっても20代で罹患したら充分なお金の備えは難しいものです。治療に懸念なく臨むためにも、お金の工面をするさまざまな選択肢があると心強くいられるのではないでしょうか。どうにもできずに生命保険の解約を考える場合には、ライフシオンにご相談いただくこともがん患者様にはお伝えしていきたいところです。
体は動かなくても考えることはやめなかった。ビジネスの構想を現実に移した生きる力。銀行員時代にたくさんの事業を見てきた視点を活かして
苦しい治療を乗り越え、見事夢だった起業を実現しましたね。
「ええ。人間はいつ死ぬかわからないな、という価値観になってから自分が今何をしたいか、何ができるか、そのためにどういうふうに動いていこうとか、とそういう考えになっていましたので、治療中も体こそ動けませんでしたけど頭は激しく動き続けていました。現在推進しているビジネスもそのときに着想していたものです」。
中村さんのビジネスは、銀行員時代にさまざまな業界に対して改善感度をもって事業を眺めていた経験が着想のヒントにもなっていたとか。

「日本酒に焦点を充て、関連する諸々を事業化していきます。酒蔵、酒造業界サイドに寄り添ったものですね。わかりやすいのはスキンケア商品の開発や輸出、他に酒蔵のラベルのリブランディングなども、新しい試みに関心をもってくれる酒蔵さんを対象にして取り組んでいます。また、業界的にデジタル化なども課題のひとつですから、デジタルを活用した効率化にも着手しているところです」と語る中村さんは、いかにも充実した日々が垣間見えます。
日本酒によるビジネスの可能性を示唆する、というビジョンのもと企業経営をしているなかで、業界で当たり前になっていることも異業種経験を積んできた中村さんのような新しい視点からビジネスとして見ると、新たな発見やブレークスルーの芽も生まれるはずです。
「構造など大きな点だけでなく、手前のブランディング、マーケティング、プロモーションでできることもたくさんあると思っています。今は自分が主体になってやりたいことをできるので会社員時代とは違う面白さ、充実を感じられますが、もちろん起業したゆえの困難にも日々ぶつかりまくっていますよ(笑)」。
今日明日あさってくらいにフォーカスして楽しんで生きること。今が明日をつくるという生き方がくれた充実
「そうした自分の意思決定に基づく生活を送れる日々にあって、長期的なことは考えなくなりました。人生設計と考えた際、人はまだまだ未来があると考えてしまうものですよね。僕は逆に、昔は人生設計を考えている方でしたが今はほとんど考えません。正直、今日明日、あさってくらいの事しか考えていない。いかにそこにフォーカスして楽しんで生きていけるか、と考え方が変わったのです」。
メガバンカー経験でおそらくは多数の“一瞬先はわからない”企業経営の現場を目の当たりにしてきた中村さんは、決して安楽に起業を考えてはいません。それでも強くこう言い切る姿から、今日という日が本当はかけがえのない貴重な一日として感じられるのではないでしょうか。
「今後の目標としては、まずは今日と明日を全力で生きる。これありきです。会社経営としては事業を大きくしていきたいです。そして、僕というフィルターを通してがんに限らず病気で苦しんでいる人たちを元気づけられたらいいな、と考えています」と、強い意思的なまなざしと共に持ち前のひと懐っこい笑顔を見せるのでした。